昭和五十七年 七月十七日 朝の御理解

御理解 第六十八節 神参りをするに、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。

 昨日から私は、身体に変調が起こっておるです、何かこう芯熱というのでしょうか、身体中が痛いんです。昨夜も眠れぬままに、一夜を過ごさせて頂いたんですけれども、そんなわけで少し、いつもより早く御神前にでらせて頂いて、やっぱり苦しい時には苦しいです。それで苦しいけれども結構な修行させて頂いて有難いと、本当に有難い心はないかもしれんけれども、まあ、修行させて頂いて有難いと御礼申させて頂いた、途端に感動が湧くんですね、やっぱ苦しい事は苦しいですよ、いろんなこれは金銭関係の事だって、身体の事だって、いろんな問題、そりゃあやっぱ苦しいんですけれども、その苦しい事は、私共はみんな修行として受けて頂く、なかなか修行として、御礼の申し上げる心もないけども、結構な修行さして頂いて有難いという御礼を申し上げた途端に感動が湧いてくる。
 で、御心眼に「大きな黄のスイカ」を頂いたんです。黄のスイカがありましょうが、こうね、赤じゃない、だから本当に、しんから有難いとやはり苦しい時には思えんのだけども、なら、それを苦労で終わらせずに修行として、やはり御礼を申し上げる、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、人生の様々な雨風の日にはやっぱりしるしいですね、しるしいですけれども、今日も結構な修行をさして頂いて有難い、そこんところがですね、信心のある者と無い者の違いじゃなかろうか、こんなに、どうしてこんな苦労ばっかり、続くぢゃろうかというのではなくて、苦労が続けば続く程、大きな苦労であればあるほど、いうならば、大きな修行をさして頂いておるのですから、だからそれが本当なのですから、例えばしんからではなくても、御礼を申し上げる心に神様は私の心に感動を送って下さったと思うのです。
 感動で今朝から一杯で御神前を立つ時には、何かこうスッキリとした感じでね、ま、今日の御祈念つとめさせて頂く事が出来ました。皆さんも本当にそれこそ、真っ赤な、それこそ水火の行と言われますから、熱情あふれるような、修行もこれは大事ですけれども、私共は生身をもっておりますから、やっぱり痛い時には痛い、苦しい時には苦しいんです、けどもそういう時にね、今日も結構な修行させて頂いて有難い、私、この辺のところがね、私は実に微妙なところ、本当心から有難にとは思ってはないけどもね、苦しいから、けれども修行という事だけは思うから、修行させて頂いたとそれが本当だから、神様はそれに対して感動を送って下さる。
 はあ、今日も苦しい一日だった、いつまでこんな続くだろうかというような苦労では修行にならんですね、どんなに雨が降るから、風がふるからというてもね、それをやはり御礼を申し上げれる心がね、いると思うです、そこから神様が真っ赤な修行とまでは受け取って下さらんんでも、黄色い修行として受けて下さるという事になります。苦労で終わったんでは力にもおかげにもつながりません、どうしてもやはり修行として神様に受けて頂く、そういう信心させて頂く者はいつも心がけが大事なんですね、もう寝ておる時には、あちらも痛いこちらも痛い、苦しいばっかりで眠れませんし、もうどうにも仕様がない、有難うございますとはなかなかいえんけれども、一度、黒依をつけて御神前にでらしてもらうと。
 昨夜も一晩中結構な修行させて頂いたというて御礼が、それこそ途端ですからね、感動が送って下さるですね、神様がそれを本当だと思し召すからだと思うですね、その感動が何かしらん、今日の勤も出来たように思います。日々様々な苦労があります事を苦労で終わらせてはならぬ、それをどこまでも結構な修行として御礼を申し上げれれるという事がね、それが力も頂けて来る事ですしお徳にもなるという、私は修行とはそういう事だと思う、ただ苦労に終わらせたんでは、それは力にも修行にも神様は受けて下さらないというふうに思うですね、今朝の私の体験から、そしたら今日の御理解でしたから、一言聞いて頂いたんです。 
                       どうぞ
 (今日は親教会の夏の御大祭ですから、皆さんどうぞ、終って直ぐ帰らせて頂いたら一時の御祈念に、みんな間に合うでしょうから、そのつもりでどうぞ御参拝下さい